[NEXT杯 OQM2006 シリーズ 第1戦]
(ML-DRC2006 第10戦)

尾針得介の元祖クイジーマップ OQM-24
春・駿河の海と歴史の山道ドライブ 86km


開催期間:2006年3月3日〜6月4日 (開催終了)


コース全体図 賞品参加者の声

 NEXT杯OQM2006シリーズの第1戦です。本年もOQMをよろしくお願いします。

 駿河に、東海道に立ちはだかる山の一つ高草山があります。日本武尊が東征で越えた日本坂峠。現在は東名高速の日本坂トンネルがその下を抜けている。伊勢物語にも詠まれている平安時代の古道の蔦の細道。その後、明治まで使われた旧東海道の宇津ノ谷峠。そして山腹を貫く明治、大正、昭和、平成のトンネル。それに新幹線と東海道線と東名高速道のトンネル。大崩海岸の3本の小さいトンネルを除いても合計13本のトンネルがある。さして大きくもない山にこれほど多くのトンネルがあるのは日本で唯一、いや世界でもここだけではないかと思います。その高草山に道が網の目のようにあるので、高草山をメインにレイアウトしてみました。

 実は私の祖先の地が藤枝で、60年前に米軍の東京空襲を避けて西益津村平島にあった親戚の家に疎開しており、田中城址の西益津小学校に2年ほど通っていた。改めて調べてみると田中城は珍しい円形の城で、平地にありながら堅固な備えで武田勢が守るこの城を徳川家康が8年攻め続けて、やっと落とした名城なのだということを知った。平島口の城門からの道は御成街道といい、徳川家康が駿府から田中城を訪れる時に使った道です。武田信玄や織田信長、豊臣秀吉もこの御成街道を通って田中城に入ったという歴史のある道で、私はその道を通学路にしていたのだった。

 これだけの大物が時は違っても同じ城に入ったというのはないと思います。石垣が無く土塁と濠で囲まれている城だったため、明治維新で廃城になった時に土塁を崩して濠を埋めて農地にしてしまったので城は消滅したそうです。田中城で有名な話は、徳川家康が鯛の天麩羅が美味しくて食べ過ぎてしまい、腹痛を起こして体調を崩したのが原因で亡くなったということです。

 あの有名な池波正太郎の鬼平犯科帳の長谷川平蔵の先祖が田中城の城主だったということには私も驚きました。その祖が小川港の小川長者であり、司馬遼太郎が「箱根の坂」で伊勢新九郎(のちの北条早雲)が小川港に上陸して小川長者の世話になる場面がある。もっと色々な事柄があり面白いのだが、今回のOQMに取り入れるとマニアックになりすぎるのでこの位にしておきます。

 それにしても60年前の幼い頃の記憶というのは、あまり無いものだと実感しました。昭和20年6月の空襲で静岡市街が焼かれて高草山の向こうが真っ赤になっているのを覚えているくらいです。

  さて今回の助さん格さんはスポンサーの川口浩さん(写真右)とOQMscリーダーの矢木雅人くん(写真左)で、車は川口さんのレガシィワゴン、距離計測器はドライブモニター4020です。

 スタートは東名高速の焼津IC脇の「八楠公園」である。スタートしてすぐに「魚公」という魚屋がある。かつてPDQMのゴールにした所で私の従兄弟の山口幸夫の店です。焼津といえば小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが避暑に来た事で有名です。その小泉八雲が宿泊していたのが山口幸夫のひいおじいさんである魚屋の山口乙吉の家で、二人はとても気があい、「乙吉のだるま」という短編小説を残しています。その家は私も泊まったことがあるが、その頃はそのことは全く知らなかった。その家は現在犬山の明治村に移築されている。

 コースに戻ってODまで港の海岸に沿って走らせる。港の場所によって停泊している船の種類が違うのが楽しい。沿岸漁業の小さな漁船から遠洋漁業の大型船まで見ることができたのは初めてだった。ODの小川港の津波緊急退避施設はあの高さで大丈夫なのかなと思ってしまう。今回の最大の目的であった朝7時から開いているはずの「小川港魚河岸食堂」が見当たらない。何と改装中で営業していなかった。2月初旬には新装開店の運びとなるようで安心したが、我々はおなかを空かせてのドライブとなった。ここの海鮮丼(1000円)が食べたかったのに…残念! 今回はこのせいかこの後の食事も全てハズレだった。

 石津浜公園は美しい松林と広い渚、そして富士山とのハーモニーが素敵な公園です。最近の浜辺は砂浜が狭くなっているが、ここの砂浜はとても広くて気持ちが良い。ぜひ渚まで行くことをお勧めします。

 田中城跡は小学校と中学校になっていて立ち入ることができず、わずかに残されている濠などを巡るのも道が狭くてあきらめたが、「田中城下屋敷」という施設ができていて、田中城に天守閣は無かったが本丸櫓の御亭が移築されており、わずかに名残を忍ぶことができる。庭園も立派で徳川家康ゆかりの蜜柑の木があるのがおもしろい。

R150の大崩海岸は文字通りの難所で、あまりのひどさに復旧をあきらめて作った迂回路が石部海上橋です。小さな駐車場があり、破壊された旧道を見ることができる。しかし、満車で止められない。どれもカメラマンの車らしい。残念ながらパスすることにした。

当日は漁が休みということで用宗漁港の周辺の直売所はみんな休みであったのが残念であった。たまたま入った食堂にシラス丼があるというので食したらやはり味はよくなかった。生のシラスはその日のものでなければダメなものらしい。

丸子の北と南の山道を走る。少し短いがなかなかよい。伊勢新九郎の妹で今川義忠の正妻北川殿の菩提所の徳願寺があり、寄って行くつもりであったがコース取りの都合でキャンセルする。ここの道は狭いがコーナーの多い道で楽しめる。ところで道路脇の石垣の上に木箱が所々にある。クイズにしたかったが、確認するために怪我をする可能性があるのでやめたのだが何だと思いますか。有名なとろろ汁の「丁子屋」の前を通るが、前回の「葵」のとろろ汁と比べると高いし内容も問題外なのでパスする。

「道の駅宇津ノ谷峠」は三か所もある珍しい道の駅である。やや狭いのが難点だが軒先で焼いていた150円の“ネギ豚ロール”が美味しかった。今回実食してお勧めできるのはこれだけだった。

東海道五十三次の宿場ではない間の宿(あいのしゅく)は休憩だけが許された宿 (しゅく)で宇津ノ谷がそれである。豊臣秀吉から下賜された紙羽織で有名な御羽織屋があり、以前は昔のたたずまいを残している印象だったが、現在は通りがカラーレンガ舗装されて歴史のある景観がなくなっていた。改悪としか言い様がない。どうせやるなら昔の東海道を忍ばせるような道にしてほしかった。明治のトンネルの入口にある3台分の駐車スペースは身障者専用となってる。健常者は歩いて来いというのだろう。これでは使えないのでキャンセルする。

13図出口の少し手前の左に上る小さな道が旧東海道である。豊臣秀吉が北条征伐に向かう時、十万の軍勢を通すために新たに切り開いた宇津ノ谷峠で、この道が後の東海道として定着したのです。メインの街道としては随分と狭いような気がしますが…。ところで、十万の軍勢が関西からの長旅をどのような服装だったのでしょう。武装していたのでしょうか、戦に必要な物資の運搬はどのようにしたのでしょう。どなたか教えてください。

さて、いよいよメインの高草山に入る。初めは集落の中をゆっくりと走る。北側の山腹を走る道は林の中で展望はない。鞍掛峠を越えて東に回り込むと見晴らしを望めるようになる。分岐が多くなるが道なり走行の基本を守っていけば迷うこともなくコースを辿ることができる。この辺りでは有名な「花沢の里」は長屋門造りの建ち並ぶ美しい里だが中高年のハイカーが多いので慎重にドライブしてください。長屋門の一部をくりぬいて農産物の無人販売所にしているのが面白い。さらに東に回ると東名高速、新幹線、東海道線などのトンネルの出入口を眺望しながら走る。他の場所では見ることのできない風景なので少々感動する。いったん下ってからまた上る南側の斜面は蜜柑と茶畑で覆われていて道路が縦横に走っている。予定していたルートを迷わずに通れるか心配だったが、なぜかすんなりとトレースできたのが不思議だった。

笛吹段公園は芝生の斜面が素敵で寝転がって焼津の海と街を眺めることができるのが素敵だ。もう一つこの公園で人気なのが、ここから眺める夜景でこれは素晴らしい。特に東名高速が斜めに街の明かりを割くように走って強烈なアクセントとなっているのがよい。この夜景はマニアの間では有名で、我々も夜景を待っている車を何台も見た。さすがに男同士というのはなかったようだ。高草山の道は花沢の里以外ではほとんど民家も無く安心して走れるが、春になれば農作業の車が駐車していたり、対向してくることを想定してドライブしてください。

ゴールの岡部の「道の駅宇津ノ谷峠」は珍しいくらい小さな施設で、それもまた良いものである。ゴールは売店の前の縁石の角にしましたので、他車に十分ご注意ください。


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